『 であい A 』

 池田町 浄妙寺  野村 法宏 師

 

 前回、私たちがこの世にいのちを恵まれた目的は「であう」ためだったというところまでお話させていただきました。それでは、誰に「であう」のでしょうか。
 勿論、両親・家族・友だち・先生・地域の人等、人と人との「であい」を挙げない人はありません。しかし、「であい」とは、このような目に見える「であい」だけではないことに気付かされているでしょうか?私の目には映らない「であい」がいくつもあるんですよ、と教えて下さるのがみ教えなのです。
 例えば、私に向けられた親の願い。見えますか?見えませんね。でも、間違いなく、いのちを恵まれて以来、一時も休むことなく届けられているのが親の願いなのです。そう気付かされると、両親・家族・友だち・先生から数限りない願いが私に向けられていたんだと、その願いにであうことができますね。私って、無量の願いを一身に受けているんです。だから私は尊いんです、かけがいのないいのちなんです。そんな話をし、中学二年生の後輩と共に考えたことでした。
 後で感想文が届きました。「自殺してはいけない・友だち関係は大切だ、そんな話をされるのだと思っていましたが違いました。みんなの願いに支えられている私って、とても大切な存在なんだと思いました。」とか、「私のせいでケンカして1ヶ月親としゃべっていませんが、そんな時も私に願いを届けてくれると思うと、ゴメンナサイと言えました。」等々。とても素直なんです。私にもこんな時期があったのでしょうか?
 宗教情操のなかで育つって、大切なことですね。子どもは日曜学校へ、大人はご法座へ、毎日はお内仏へ、さあさあ、始めましょう!すばらしい「であい」
があります。


                              合掌