『 もちつもたれつ 』

 岐阜市 妙圓寺  佐々木 博 師

 

 私は、現在ほど「いのち」というものが軽く見られている時代はないと思っています。情報化時代を向かえて数十年、いろいろなことを知られ、多くのことをみんなが知るようになりましたが、一番大切な「いのち」のあり方が見失われてきたようであります。 仏様の教えを通して私たちは「いのち」をどのように見ているかといいますと、一言で縁起という見方です。
 縁起といいますと、一般的に縁起が良い、悪いとか、縁起を担ぐとか、縁起ものなどという言葉の使い方をしますが、これこそ仏様の教えとは縁がない言葉で、仏教本来の意味ではありません。
 仏様の教えから言えば、縁起とは、縁って(よって)起こるということであります。つまり、「いのち」というものは、単独で存在するものではなく、必ず、他のいのちと依りあって生かされているということなのです。
 おじいちゃん、おばあちゃんたちは、縁起という難しい言葉を、身近な言葉に直して味わっていました。それは、「もちつもたれつ」という言葉です。私も幼い頃、おじいちゃんや、おばあちゃんに二言目には、「生きていくにはもちつもたれつだからね」とよく言われていたことを思い出しました。最近は、あまり聞かれなくなったようです。現在では、もちつもたれつと言わず、何かにつけ関係ない関係ないという言葉で片付けられているようです。私は、これが一番間違った考え方だと思います。
 差別の問題、いじめの問題、いろいろな「いのち」に関わる問題を関係ないとお互いに横を向いてしまう人間のあり方が問われている気がします。
 お互いの「いのち」はもちつもたれつ、多くの人、空気、太陽に支えられながら、生かされているのです。

                              合掌