小さな峠を越えては、お参りに行っています。昔は本当に細い峠道でありましたが、いまはトンネルができ、随分便利になりました。
その短いトンネルを通るたびに、度々感じる不安があります。
車での移動中、たいてい、ラジオを聞いています。聞いているといっても、ただ何となく聞いているだけなのですが、トンネルに入り、その番組がとぎれてしまうと、不思議と、とぎれた部分が気になるものです。時間にしたらほんの数秒、聞き取れずにわからなかったということが、どんどん不安を募らせていくのです。こんな気持ち、何となくわかっていただけるでしょうか。
ところで、なぜ、こんな話をしたかといいますと、不安とは何だろうということを考えてみたかったからです。
不安は、重大なことであれ些細なことであれ「わからないこと」から生じます。意味がわからない、原因がわからない、解決の方法がわからない、全て、不安の種です。自信を持って「わかる」と言えることなどほとんどないわけですから、わたしたちは、元来、不安の種をどうしようもなく抱えているといえそうです。
その不安が故に、時に、わたしたちは、何かほかの心地よさの中に身を置いてみたりします。例えば今流行の「癒し」といわれる働きはそういうものではないでしょうか。「癒し」は、不安を和らげてはくれます。しかし、永遠にその心地よさの中に浸っていることはできません。
一時の「癒し」を越えて、親鸞聖人は、確かな「救い」を勧めてくださいました。つきることのない不安の中で生きるわたしに、阿弥陀さまは、ただ「必ず救う、」と願われます。その願いに疑いなくまかせよと親鸞聖人は勧めてくださったのです。
不安のまま、安心する、この一見矛盾した「救い」の境涯は、理屈ではなく、手を合わせ、お念仏を称えるなかで味わわせていただきましょう。
合掌
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