『 癒しと救いの世界 』

 縁覚寺 楠 眞 師

 

 最近、スロー・ライフという言葉をよく耳にします。このスロー・ライフに先立って、癒しということも盛んに言われています。癒し系の音楽、癒し系の香り、癒し系のお茶、果ては癒し系の女優さんまで、何でもかんでも癒し系が大はやりです。気が付けば、自分もヒーリングミュージックといわれる、まさに癒し系の音楽を好んで聞いていたりするこの頃です。
 ところで、癒されるということと救われるということは、どれほどの違いがあるのでしょうか。そんなことを考えているときに、童謡詩人の金子みすづさんの「さびしいとき」という詩に出会いました。「私がさびしいときに、よその人は知らないの。私がさびしいときに、お友だちは笑うの。私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。私がさびしいときに、仏様はさびしいの。」という詩です。
 私がさびしくてつらいとき、よその人や友達は親身になってくれない、しかし、お母さんは文字通り親身になってやさしく包んでくれる。ここに癒され慰められる世界があります。
 金子みすづさんは最後に「私がさびしいときに、仏様はさびしいの。」と謡っています。癒されるだけでなく慰められるだけでなく、もっと深く、共にさびしさを生きてくれる存在として、仏様がでてきます。
 親は常に優しいものなのでしょうが、時として優しさの裏に要求があったりするものです。私自身、身に覚えのあることですが、お勉強がもっと出来るようにとか、もっともっとときりがありません。しかし、仏様は何の要求も条件づけもなく、ただ私の喜びや悲しみに寄り添ってくださいます。人はその時その場で救われるのではないでしょうか。救いというのは、そのように成り立つことではないかと、味わうのです。「私がさびしいときに、仏様はさびしいの。」あるがままに受け入れ、あるがままに感じ取る。仏様はそのような生き方を教えてくださっています。


                                合掌