先日、京都の大谷本廟へご門徒の皆さんとお骨納めにいってきました。
浄土真宗の門徒は昔から遺骨の一部をご本山近くの大谷本廟へ納める習慣があります。
ある時ご門徒さんから、「どうして、遺骨を分けて京都に持って行かなければならないのですか?遺骨を分けると死んだ人がどっちに行こうか迷うから、しない方が良いと聞きましたが」と尋ねられました。
わたしは、「京都の納骨するところは、大谷本廟といってご開山親鸞聖人の御廟所、つまりお墓なんです。京都に持って行くということは、そこへ納めさせてもらうという事ですよ。」と、答えさせていただきました。
私たちの、勝った負けた・損か得かの思いの延長で物事を考えると、命終わって最後に残った遺骨を分けると、迷ってしまうと思われがちです。
しかし、そんな私たちに親鸞聖人は命終わると同時に阿弥陀様の浄土に生まれ、お証をひらかせてもらうんですよ、とお示し下さいました。
お浄土で、証をひらき仏さまの仲間に入っておられる先立たれた方々にとって「迷う」などということは決してありません。反対に私たちを真実に導こうとされているんです。
ただ、私たちがこのように受け止めさせて頂くには、親鸞聖人のみ教えに出会って始めて身に付くものです。だからこそ、ご先祖の皆様も最後の遺骨を親鸞様のお墓に一緒に納め、後世の子孫たちと親鸞様のみ教えの架け橋となるために大谷本廟への納骨を願ってこられたのです。
合掌
|