『 お浄土ってどんなところ  』

 大垣市 縁覚寺  楠 真 師


 先日、高校生の息子と話しているうちに、「ところでお父さんはどんな話をしているんや」と問いかけてきました。
 お説教から帰ってきた後の夕飯の時のことでした。私はあえて、漠然と「お浄土の話に決まってるやろ」と応えました。
 息子は「お浄土かぁ〜」と一言つぶやき、「お浄土の阿弥陀様のお慈悲に包まれて、生かされていることは有り難いことですね。」というような話はリアルやないな、そんなん今時通じるんかなぁと偉そうなことを言いました。
 「お慈悲に包まれて云々」という表現をいつのまに聞いて憶えたのか、少しびっくりしましたが、「リアルやない、今時通じるのか」という言い方が気になりました。
 果たして、現代人にとって浄土とは何か、どんな所なのか?理解することは、とても困難なことのように思われたからです。
 名古屋、岐阜や大垣があるように浄土という場所があるわけではありません。人間が死んで後、いわゆる霊的世界があって私という魂がそこへ行くわけでもありません。
 お浄土は、色や形があるわけではなく、霊魂がより集まる場所でもありません。お経には、浄土には阿弥陀仏がいらして今現在、真実の法を説かれていると出てまいります。
 浄土、それはこの大宇宙の根本真理、真実の源と言ってよいでしょう。阿弥陀仏とは智慧と慈悲という真実のはたらきそのものを現わすこの上ない仏であって、したがって浄土とは、真実のはたらきの発信地なのだと息子に説明しました。
そして、例えば愛を感じること、美しさを感じること、これらの愛とか美というものをそのままに示して説明できないからといって、愛や美がこの世にないわけではありません。これらのことは、誰でも体験として感じ取ることができる世界です。
 「抽象的な事柄でも、時としてリアルに感じることはあるだろう。」といいますと、息子は「ウーム」と応えました。
 十七才の息子に真実に導かれる聴聞が始まっています。そのことが嬉しい夜でした。
                             合掌