『 死を見つめるこころ 』

 大垣市 縁覚寺  楠 真 師


 縁ある方が亡くなった時、最近は「天国に旅立たれた」という表現が一般的になってきたようです。
 死後の世界を天国と表現するのは、キリスト教的な西洋文化の影響によるものでしょうか。それとも、特定の宗教をイメージしないまでも漠然と天国という表現になってしまうのでしょうか。
仏教でいう極楽にゆかれたとか、浄土に往生されたとの表現はあまり聞かれなくなって来ました。
 私は僧侶として、このことを嘆かわしいことだとは思っていません。しかしながら、今の私たち日本人の生死観というもの、それは人間の生き死にの事ですが、そのことが、日々の生活に根差した形になっていないのが少し気がかりです。
 かつては、宗教的世界をとおして培われた生死観のことです。つまり、私たちは真剣に死というものを見つめひるがえって生きることの意味をしっかりと、問いかけているのでしょうか。そのような人生の歩みのことがあまり意識されていないのではと、思うのです。
 もっとはっきり言うと、死というものを見ない振りをするようにして、遠ざけて生活しているように感じます。このことは、いかに生きるのか、より良く生きるとはどういうことなのか?という、人生の問いを、投げ捨てて生きているようなものです。
 縁ある方の死という事に出遭った時、私たちはどのようなことを想うのでしょう。人間は、死んでそれでおしまいなのでしょうか。死は悲しいばかりで死を前にして、結局、人生は空しいものなのでしょうか。例えば亡くなった方とつながり続ける術は何もないのでしょうか。
 あなたは、ご自分の死を想像されたことはありますか。
 昔は人生50年と申しました。私はその50才になって、あらためて、自分の死を今、見つめています。
 私は、意味のある死、豊かな死、喜びのある死、感謝を伴った死を迎えたいと思っています。それ故、意味のある人生、豊かな人生、喜びと感謝を伴った人生を歩みたいのです。さあ、実際に私にどんな死がおとずれるのでしょうか。
しっかり生きなくてはと、思っています。
                             合掌