『 源信和尚のお話し  』

 春日井市 春日井布教所  加藤 礼嗣 師


 お正信偈の中に「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」とありますように、源信和尚は、『往生要集』の中で、「様々な行をまじえて修める自力の信心は浅く、方便の化土にしか往生できないが、念仏一つをもっぱら修める他力の信心は深く、真実の報土に生まれることができると明らかに示され」ました。
 平等のお救いのはずなのに、なぜ、お浄土の中に報土と化土が設けられているのでしょうか?そして、なぜそのことを明らかにしなければならなかったのでしょうか?
 阿弥陀様の本意は、化土に生まれさせることでは、決してありません。
 いくら「すべてのものを、必ず救いとって仏にする」と阿弥陀様がはたらきかけ続けて下さっていても、なかなかその願いに気付かずに、自らの力、自力にとらわれているこの私が存在しています。そんな私を、なんとかして真実の報土に導きいれたい、と阿弥陀様が願いをたてて下さったのです。そして、真実の報土に導きいれるためのてだてとして、仮にあらわされたのがここでいう方便の化土であります。
 化土が存在することを明らかに示すことによって、自力の信心を戒め、他力の信心を勧めてくださったのです。すなわち、私たちがお浄土に往生させていただく道は、他力の信心によってしかない、ということを源信和尚が、明らかにしてくださったのです。その喜びを、「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」とあらわし、親鸞聖人はお讃えしていらっしゃるのです。



                             合掌