曇鸞大師は『大集経』という大部の経典の注釈書を完成するために、長寿を得ねばとてもこの仕事はやり遂げることができないと、不老長寿の法を求めて、江南に、仙術を極めたという陶弘景を訪ねます。三年ほどの修業の後、不老長寿の秘法に通達し仙経を付属され、さあ、早くもとの仕事にもどらねばと、意気揚々と帰り道を急がれた曇鸞大師、途中、洛陽でインドから仏典の翻訳に招かれていた菩提流支三蔵にあわれます。
お互いの情熱を語り合われたのでしょうか、勝手な想像ですが、多少、得意な面持ちで、仏法弘通のために不老長寿の法を得たことを伝えると、「不老長寿の法に何の益があろうか!どれほど寿命を延ばしたところで迷いの境涯を出ることにはならないではないか!」と一喝され、『観無量寿経』を授けられます。大師は、差し出されたお経の表題をご覧になられるやいなや、そうだ!仏教は五十年や百年の寿命を問題にしていたのではなかった。まさに無量寿、永遠の生命、無量の寿命を得る仏になる道を問題にしていたのだった、と苦労して手に入れた仙経を惜しげもなく焼き捨ててしまわれるのです。
このあたりが曇鸞大師のすごいところです。私たちは自分が手にしたものをなかなか手放すことなどできません。まして、それが苦労して手に入れたものならばなおさらです。不老長寿といってもまさか死なないわけにはいきません。
ということは、そもそも、まだ死ぬわけにはいかぬ、と不安や焦りを感じてしまう生き方にこそ問題があるということです。それではどうしたらいいのか?それを、次回、曇鸞大師に、さらにおたずねすることにいたします。
合掌
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