ここでは、住職とその仲間のお寺で運営している「テレホン法話」を掲載しています。法話は一週間ごとに変わっていきます。
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『 仏教とエコロジー A 』
大垣市 縁覚寺 楠 眞 師
比叡山の修行に千目回峰行という、厳しい命懸けの修行があります。これを成就された酒井阿闇梨は修行中に、「途中で息絶えても比叡山の露になるのなら、それは本望だ」と語っておられました。たとい修行に挫折しても、自分の肉体が比叡の山の中で、木々の肥やしになれば良いという覚悟は、まさに命懸けの修行であることをよく示しています。同じに、自分の身体がいわゆる山川草木に囲まれて、包まれて生きているという酒井さんの感覚は、仏教的な自然観・生命観であると味わうことができます。思い起こせば、親鸞聖人もご自身の臨終について生前に、「それがし閉眼せば、加茂河にいれて魚にあたふべし」と語られたと伝えられています。 仏教徒にとって、私といういのちの存在は、他者のいのちと密接に係わって、 この世に存在するのだと教えられます。「我ある故に彼あり、彼ある故に我あり」という教えは「縁起」と表され仏教の根本真理とされています。私は自分勝手にこの世に在るのではなく、あらゆるいのちと支え合って生かされて在るのです。私の学生時代、ある先生は「縁起とは、もちつもたれつの関係のことをいうのだ」とおっしゃっていましたが、これはお互いが依存し合って成り立つという、いのちの本来の在り様のことを、分かりやすく言っているのです。 私たちは、縁起の法によって、あらゆるいのちと支え合う関係にあるのだということを知らされます。つまり、私だけが尊いのではなく、人間だけが尊いのでもない。あらゆるいのちの存在が、共に尊いのだということです。ここから、生活実践として、いのちを育む行いを為していこうという思いが開かれてくるのです。自らのいのちの為に、他者のいのちの為に、今あなたなら何が出来ますか。環境間題はいのちの問題なのです。 合掌