ここでは、住職とその仲間のお寺で運営している「テレホン法話」を掲載しています。法話は一週間ごとに変わっていきます。

テレホン法話に興味のある方は、下記の番号(正尊寺テレホン法話)へかけて下さい

TEL 0581−34−4242

 

『 おおせのままに 2 』

関市 光圓寺    日野 安晃 師

 

 音楽ソフトにしろビデオソフトにしろ、私が同じものを何度も鑑賞していると「よく飽きないわねぇ」と、妻に呆れた顔をされます。しかし、私には「あ、これは一度聞いた。一度見た。」と、あとは見向きもしない妻の方がどうかしていると思うのですがどうでしょうか。
 あまりいい例えではありませんでしたが、お聴聞の場に於いてご本願のお言われを知識として得ようとすることと身の上に味わうこととの違いが伺われる気がするのです。

 妙好人 善太郎さんにこんなエピソードがあります。

 あるお寺の小僧さんが、善太郎さんの住んでいる町内へお取り越しのお参りをするのを大変に嫌がりました。それはお勤めを済ませて法話をしようと向きを換えると、どこのお宅に行ってもいつも善太郎さんがいつも一番前でお参りをしているからなのです。
小僧さんの法話は読み法談と言って、住職さんに教えられた通りを紙に書いて読むことしかできませんでしたので、いつも同じ話であることが恥ずかしかったのです。
それを知った善太郎さんは、「わしはいつも変わらん法を聞かせてもらいに参るので、2度3度と繰り返し聞くほどに有り難い。」とお念仏申されたそうです。

 私などは、大切なお聴聞の場でつい目先の変わった話をよろこび、話し手の良し悪しを批評してしまうことがあります。私たち現代人は、とかく物事を批判的に吟味し、知的に理解をしようとします。それ故、仏様のお話を聞かせていただく時にも自分に納得できるように話をしてくださる方でないと話が聞けないということが起こってきます。もちろん知的な理解も大切なことなのですが、それだけではちっぽけな己の身に合う知識を積み重ねるだけでありましょう。
妙好人 善太郎さんの話し手が誰であろうと、そこに仏様のお 呼び声を聞き、仰せのままにお念仏申す姿は、実に仏様の底なしの智慧をいただいた姿であります。


                            合掌