ここでは、住職とその仲間のお寺で運営している「テレホン法話」を掲載しています。法話は一週間ごとに変わっていきます。

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『 信仰は悩みの逃避ではない 』

豊田市 豊田布教所  前原 暁 師


  信仰をもつ」というと、何か深い悩みがあって、それを癒すために神・仏(ほとけ)に頼ることのように、私たちは思っています。しかし信仰とは決して麻薬のように、悩(なや)みや苦しみをまぎらわすもの、あるいは、奇跡のように、悩(なや)みや苦しみを消してしまうものではないのです。

 ある時釈尊は、《死んだ子供を生き返らせてくれと泣きながら》子を亡くして嘆き悲しんでいる母親に対し、親・子・孫の三代に亘って(わたって) 葬式を出していない家から、芥子をもらってきなさいと《命じました》おっしゃいました。母親は言われるままに探しますがそのような家は何処にもありませんでした。こうしてそんな家がないことを母親に直接知らしめて、自分の子の死を、動かしがたい現実として、直視させようとなさったのです。

 《これについて、批判する学者もいます》このことを批判する意見もあります。この母親に必要なのは、冷たい現実を知ることではなく、やさしい慰めの言葉だ《ったというのです》と。
しかし、その言葉は一時的な気休めでしかないのではないでしょうか。子を亡くしたという現実は変わるはずもなく、母親はいつかそれ受け止め、生きていかねばならないのです。

信仰とは慰めでもなければ、奇跡でもありません。それは智慧です。人生をありのままに受け止め、真実に気づかせる深い洞察です。

 そういう深い洞察を得て、初めて人間は苦悩から癒される道を見いだすのです。一時的な慰めや逃避によって癒されるのではありません。

 釈尊の教える「諸行(しょぎょう)無常(むじょう)」、すなわち一切のものは常ならぬものと知ることによって、「諸法(しょほう)無我(むが)」、すなわちあらゆるものにとらわれ、それ故に苦しまなければならない自分のあり方から開放されて、本当に自由に生きる生き方へ導かれるのです。




                               合掌