ここでは、住職とその仲間のお寺で運営している「テレホン法話」を掲載しています。法話は一週間ごとに変わっていきます。

テレホン法話に興味のある方は、下記の番号(正尊寺テレホン法話)へかけて下さい

TEL 0581−34−4242

『 摂取して捨てざれば 2 』

大垣市  縁覚寺    楠 真 師

 

 私たちは、一般的に信心の生活というものを、あらゆる神仏を軽んじることなく敬うことだと考えています。しかし、親鸞聖人にとって、念仏に依る信心の生活とは、あらゆる神仏に敬われて護られて生活することだとおっしゃるのです。この違いはいったい何を意味するのでしょうか。
 繰り返して述べますと、私たちが神仏を敬うという一般的な信仰の在り方ではなく、逆にあらゆる神仏から敬われ護られるというのが、念仏の行者の信仰生活だといわれるのです。
 一方、浄土の教えは、それが起こった鎌倉時代から「専修念仏」と呼ばれ、一心一向にただ阿弥陀様一仏を礼拝するという、極めて純粋な宗教性がその特性でした。親鸞聖人は『教行信証』の「化身土巻」に、出家の人の法として国王や父母を礼拝せず、六進眷属につかえることもなく、鬼神を礼拝しないのだというお経を引用されています。
 ここに政治的な権力者や家族さえも含め、いわゆる世間的な人倫という世界も超えていき、迷信や占いという呪術的な自らの欲望を満たす対象としての神様にも、帰依・礼拝しないという「神祇不拝」という姿勢を念仏者の在り様として示されています。
 先の、念仏者は諸々の神様や菩薩様に敬い護られているという考え方と、もう一方の弥陀一仏以外のそれらを礼拝しないという姿勢が、親鸞聖人の教えの特徴的なところです。
 次回は、これらの立場から、私たちがあらゆる条件付けから解き放たれて、自由に主体的に生活することの意味を味わってみたいと思います。

                            合掌