ここでは、住職とその仲間のお寺で運営している「テレホン法話」を掲載しています。法話は一週間ごとに変わっていきます。
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『 摂取して捨てざれば 1 』
大垣市 縁覚寺 楠 真 師
私たち念仏の教えを受ける者は、信心の生活のことを、阿弥陀仏に包まれて生きる、抱かれて生きる、護られて生きるとか表現します。もっと深く味わうと、生きるというより、生かされているとも表現します。これらの表現には、宗教的な生き方の真髄とも言える重要な意味合いが含まれていると言えます。つまり、世俗的な生活ではない、もう一つの生き方としての宗教性をもって生活することの、大切な有り様です。 皆さんは御仏に抱かれての生活をどのような時、どのような形で実感していらっしゃるでしょうか。毎日、阿弥陀様に手を合わせられる時でしょうか。何かに困ったとき、ふと道が開けた時でしょうか。 この現世における阿弥陀仏のはたらきを、どのように実感し、どのように受け止めたら良いのか、このことはとても大事なことのように思います。 親鸞聖人はたくさんの和讃の中に、現世の利益について十五首の和讃を詠んでおられます。それらを味わうと、南無阿弥陀仏を称えたならば、流転輪廻する罪が消えて早死にすることもなく、梵天や帝釈天など諸々の天人や天の神様、地の神様、四天王や竜神様、閻魔様やほかの大魔王までもが、夜昼常にこの私を護ってくださるのだと説かれています。 様々な善き神々が寄り添って護って下さるだけでなく、天や地に住むといわれる悪鬼神までもが、信心の人を恐れて悪さをすることもないのだというのです。さらには、観音菩薩や勢至菩薩をはじめとする諸菩薩やたくさんの仏たちが、念仏の行者を取り囲んで護ってくださると説かれています。 私たちが、信心の生活というものを思うとき、あらゆる神仏を軽んじることなく、敬うことが信心することだと考えています。しかし、親鸞聖人にとって、信心の生活とは、あらゆる神仏に敬われて護られて生活することだとおっしゃるのです。この違いはいったい何を意味するのでしょうか。次回はもう少しこのことについて深く入っていきましょう。 合掌