道綽禅師は曇鸞大師がご往生されて二十一年目、同じ并州文水に生まれられました。この年は仏滅一千五百十一年目ともいわれ、正法五百年、像法千年、末法万年という計算から、まさに末法に入った当初の頃と考えられていました。十四歳で出家をなさいますが、当初、『涅槃経』の研究に没頭されます。その講釈が二十四回にも及んだといいますから、『涅槃経』の権威として不動の地位を築いていたと考えられます。しかし、自身の安心立命は得られなかったようで、四十八歳の時に曇鸞大師ゆかりの玄中寺を訪ねられたおりに大師の碑文をご覧になってお念仏のみ教えに帰依することになります。
禅師のすごいところは、三十年余も費やして得た『涅槃経』の権威という地位をさらりと捨てられたことです。以後、『観経』の研究に打ち込まれ、その講釈は二百回以上に及んだといいます。日夜お念仏を称えること七万遍に及んだといいますから、学問だけでなく実践においても余人の及ぶところではありませんでした。また、小豆を数えながらお念仏を称えることを勧めるなど、やさしくお念仏の教えを説いたために民衆にも慕われ、七歳以上の者は道俗を問わずお念仏をよろこんだといいます。
道綽禅師のお手柄は「聖浄二門判」といって、仏教を聖道門と浄土門とに大別されたうえで浄土門、お念仏をすすめて下さったことです。このことの背景には、今は末法なのであるという時代意識が強く影響しています。けれども、大切なのは、それを単なる知識・教養として嘆いてみせるのではなく、現代に生きる我等の問題と真摯に受け止められたことです。
合掌 |